富士山の水を発売
不意に知人の紹介で謝礼の高い講演が何本か連続して入り、辛うじて拙速を避けることができた。
そのときはなんだか、何か大いなるものが、(心行くまで丁寧に原稿を書いてみろ)と激励してくれたような気分になったものである。
それでもそのルポを書き終えるや否や、まだ出版される前に、すぐにお金の入る「時事解説書」を書いて、収入の確保を図らなければならなかった。
書き上げ原稿料をもらったとき、私は両手をぽんぽんと叩き「ふー」と溜息をついたものである。
結局、自営業、自由業の仕事には、大なり小なり腕1本で稼いでいる漁師のようなところがある。
漁の成果はお天気しだいだから、もし不漁が続いて暮らしに困れば「ちょっと一稼ぎしてくるか」と、小船を出し沖でイカでも釣ってくるという覚悟がないといけないようだ。
もしかすると私は少し楽観的すぎるのかもしれない。
先日、今28歳のフリーの物書きの後輩にこんなことを聞かれて、しみじみ驚いたことがある。
「Eさん、老後の経済生活のことなんか気になりませんか?ぼくはなんだか心配になるのですが……」思わず(マジかよ?)と彼の顔を正面から見直してしまった。
彼は大手出版社に勤めていたのだが、辞めて半年ほど海外旅行をしてから物書きに転じたのだ。
そんなことを心配するくらいなら、何でサラリーマンを辞めたのだろう?彼の心配の中身はこうだという。
「サラリーマンだったら、60歳くらいで辞めた後、退職金があるけれど、ぼくらにはない」「だって、サラリーマンだって退職金だけじゃ暮らせないだろう。
またゼロから何かやって薄給をもらうことになるのだぜ。
それに比べればこっちはキーボードを叩けるかぎり現役で、円熟の原稿を書けば、ちょっとの枚数でたくさんの原稿料をもらえるようになるかもしれないじゃないか」「Eさんて、楽天家ですね」今度は彼の方が(マジかよ?)という調子で笑い出した。
私はこれまでに老後の経済のことを心配したことはない。
まだかなり遠い先のことだから、今から心配しても始まらないと思っている。
今心配してもいろいろな前提条件が変わってしまい、無意味だろうと思うのだ。
それほど頑健ではないから体を壊し経済力がなくなってしまうかもしれない、と思うことはある。
それでも何とかなるだろうと思っている。
まさか飢え死にするとは思わない。
どうしても自力で何とかならなければ、(漠然と頭を過るだけだが)子供の世話になるかもしれないし、それも期待できなければ生活保護を受けるという手だってある。
それもまた楽しいような気もする。
私のような態度は、行き当たりばったりで現実的でない、と思う人も多いだろう。
将来が見通せない時代に、将来を見通そうとすることの方が、もっと非現実的ではないだろうか?一生を保障してくれるはずだった大手企業も、倒産やリストラの危機に直面しているのだ。
何10年もの長きにわたって人生を保障してくれるものが、そう簡単に誰の手にも入るはずがない。
もっとも現実的な態度とは、どんな困難が自分の前に立ちはだかっても、うろたえたり怯えたりしないで、とにかく正面から受け止めるという覚悟を、予め腹の中に作っておくということだろう。
さて会社に辞表を出して、自由業になり、自分で新しい会社や店を始めてからの日々……。
彼らが心細い思いをするだろうと、未経験者は想像するかもしれないが、そんなことはない。
「火事場の馬鹿力」ではないが、転職者のほとんどは特殊な精神状態になって、心細さなんかどこかに吹き飛ばしてしまう。
あるギャンブルを始めたばかりの人が、ベテランをカッカさせるほどつきまくるのは「ビギナーズーラック」。
長時間走り込めば苦しいはずなのに、脳内にβエンドルフィンが出て、気分が高揚していい気持ちになるのは「ランナーズーハイ」。
この2つを足して二で割ったような「ビギナーズーハイ」とでもいうべき精神状態が、多くの転職者に起きる。
とにかくやたらに気分が高揚し、体中の血が勢いよく回っているような気分になる。
だから意気盛んで、向かうところ敵なしの状態になる。
私の友人でつい最近会社を辞めて自分で会社を興した38歳の男がいるが、彼の示している症状が典型的な「ビギナーズーハイ」といえる。
彼はそれまで勤めていた会社では、遅刻の常習犯であった。
上司にたしなめられても、一向に改まりはしなかった。
目覚し時計の助けを借りても定時に間に合うように起きられなかったのだ。
ところが新しく興した会社には非常に早く出勤しているという。
何しろ今までより2時間近くも早く目が覚め、早く自分の会社に行きたくなってしまうのだそうだ。
先のY氏もビギナーズーハイを経験している。
彼が居酒屋を始めてすぐに、暮の忙しい時期になった。
慣れない仕事で後片付けにも仕込みにも時間がかかったし、激励に店を訪れる知人たちと明け方まで飲む羽目にもなった。
彼は毎日のように店に泊まりこみ、奥さんに下着を届けてもらいながら、睡眠時間2時間くらいで、その忙しい日々を乗り切ったという。
「朝になって店の窓から、出勤していくサラリーマンを見ながら、去年までは自分があそこを歩いていたのだな、今年からはここにおれの城がある、と思うと、わずかな睡眠時間でもちっとも眠くならないのですよ」、この「ビギナーズーハイ」は、本人にとっては気分のいいものでも、周囲はその元気のトバッチリを受け、迷惑をこうむる場合がある。
私も強い「ビギナーズーハイ」状態にあったから、かなり傍若無人になり、周囲の人から箪畷を買ったようだ。
フリーになってすぐから、いやもう辞めると決めたときから、私はそれまで付き合っていた編集者、著者仲間たちから、「あなたはすっかり元気よく明るくなった」といわれるようになった。
そういわれる自覚はあった。
なにしろ「ビギナーズーハイ」なのだから、いうこともやることも、それまでよりずっとボルテージが高くなっている。
周囲の人は当然感じたのだろう。
私か明るくなったのには「ビギナーズーハイ」だけでなく、他の理由もある。
当時、若い書き手や編集者仲間で作っていた集まりがあった。
私はそこに編集者として加わっていたが、参加していた編集者のほとんどが大手出版社に所属していた。
何か出版企画の話にでもなれば、当然ながら私より彼らの方が気宇壮大なことを語ることができる。
書き手も私と話すより彼らと話す方が、張り合いがあっただろう。
編集者たちは鈴々たる雑誌を持ち、書き手たちはそこで書く可能性を持っていたのだから。
もちろんそれほど露骨に仕事の話をしたわけではないが、彼らが様々たる雑誌で「今度……を書つくもりだ」とか「いま……を企画している」という会話の前で、自ずと私は笑顔を浮かべた聞き手に回ることになる。
フリーの物書きになれば、大手も弱小もない。
こっちは逆に大手出版社の編集者とも、気宇壮大なプランを話し合える立場になったのだ。
まだ何も書いていないだけに、自分の未実現の部分にいかなる可能性も夢見ることができる。
私を聞き手の側からでかいことをいう側に変えた。
「元気よく明るくなった」所以である。
顧みるに、こうして人格が変わって見えるほど元気になれたということも、転職をした効用に数えるべきであろう。
いやこれこそ第1の効用かもしれない。
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